1章 福澤諭吉と啓蒙思想
時代が大きく変わるときに福澤の教えを学ぼうとする。もちろん、まず明治維新の時だが、次に戦後である。ある意味、戦後にようやく福澤の目指した国家像が実現した。
その後75年を経て、今日本の国家は停滞していて、「病んでいる」としか思えない。しかも30年以上続く慢性病である。その様なときに、今一度、福澤諭吉の教えを見つめなおしてみる必要がある。
福澤諭吉は啓蒙思想家である。「啓蒙」とはenlightenmentのことであり、光を当てて人間本来の理性の自立を促すことだ。いわゆる、知識が無くて、道理にくらい蒙をひら(啓)くことである。
産業革命や科学革命に同期してヨーロッパで啓蒙思想が主流となっていった17世紀から18世紀にかけての時代のことを啓蒙時代と呼び、「理性による思考の普遍性と不変性」を主張する。啓蒙思想に遅れをとったドイツでも『啓蒙とは何か?』の中でカントは、「責任ある自己」の必要性を「人間が自分自身に責任を持ち、未完成の状態から抜け出すことである」とし、他人に依存することなく自身の悟性を使用する決断と勇気を身に付けろと主張している。先ず、個人が自分自身の知性の行使に勇気を持つようになって初めて社会が改良されうるとの考えが背景にある。
西洋では理性への高度の信頼の下で、自由・人権・民主主義といった自律的な個人としての人間の価値を尊重しつつ、市場秩序を維持することで高度な文明社会を築いてきた。また、個々人の中には「公共」という概念が育成され、法治制度によって社会秩序が維持されるようにもなった。福澤諭吉はこのようなトレンドを肌身をもって学んだ、日本が生んだ偉大な国家プランナーであり教育家であった。
福澤諭吉は1860年(アメリカ)、1862年(ヨーロッパ)、1867年(アメリカ)と3回の洋行をしている。特に1867年にはアメリカ東部の諸都市を訪問した。独立100記念の祭りの余韻に酔う首都フィラデルフィアにも当然を訪れているはずである。また、ペンシルバニア大学も訪問しているはずである。ペン大のイメージカラーはBlue &Redで慶應と同じで、ペンのマークもペンシルバニア大学を連想させる。何よりも、その後の福澤諭吉の活動はペン大の創立者ベンジャミンフランクリンの活動をモデルとしている。ベンジャミンフランクリンはアメリカ合衆国建国の父の一人と言われ、1776年にアメリカ独立宣言の起草委員にもなった。All men are created equal.これはアメリかの独立宣言の一節であるが、『学問のすゝめ』も「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり」で始まっている。
福澤諭吉は多くの書を読み、各国を見聞して、啓蒙主義に基づくアメリカやイギリス等の発展と、自立した市民の活躍を目の当たりにした。そしてその様な発展が進化の方向性であり、日本も学ばねばならないと考えた。それは産業の発展のみならず、価値観においても進化すべきと考えた。
2章 福澤諭吉と啓蒙活動
明治維新により新政府はできたけれど、当時の国民はお上が替ったというだけで、いわば蒙の状態であった。そこで福沢諭吉は啓蒙活動の必要性を痛感した。
1866年、1868年、1870年に『西洋事情』を執筆し、文明政治の6条件として、自由、宗教不介入、科学技術、学校教育、法治主義、福祉が大切であると説いた。
『学問のすゝめ』1872年に初版が発行され、それに書き継いで1876年17編の作品として出版されベストセラーとなった。
また、1875年には『文明論の概略』を執筆。その中で「旧来の道徳支配社会から文明的な智力による社会への転換」を説き「権力偏重による日本の文明を批判し、独立を保つための外交交際について触れ、文明化(civilization)とは、近代的主権国家になることであると説く。この書は、50歳くらいの儒学に凝り固まった人達に対するメッセージであったようだ。
1885年『時事新報』の社説に無署名で『脱亜論』が掲載され、福澤諭吉の著といわれているが、例えそうであっても、中国や朝鮮人を差別しているにではなく、改革派を残忍に処刑した朝鮮とかその背後の清国の旧守派を非難したもので、国民そのものを差別したものではない。
1899年に『福翁自伝』執筆。今でも慶應大学の新入生に配られているという。
『福翁自伝』に関しては後述するとしよう。
当時の日本の状態を『学問のすゝめ』では次のように著している。
「古の民は政府を視ること鬼のごとし、今の民はこれを視ること神のごとくす。古の民は政府を恐れ、今の民は政府を拝む。(中略)文明の形は次第に具わるに似たれども、人民には正しく一段の気力を失い、文明の精神は次第に衰うるのみ」
福澤諭吉は、国の独立は政府が専制的に主導することでは達成せず、日本に活力を生み出すのはむしろ日本人一人一人の自立にあり、実学 を修め、ビジネスを進め、法律のシステムを整備し、工業を起こし、農業を活発にし、文化を推進させることであり、その根本に教育があるとし、そのモデルをアメリカやイギリスに見出したのである。
福澤諭吉の啓蒙活動は多岐にわたる。①教育機関の設立(慶應義塾)②新聞の発行(時事新報)③社交クラブ(交詢社)④啓蒙書⑤自伝(『福翁自伝』などである。
そのいずれもがベンジャミンフランクリンの業績をモデルにしているのは興味深い。
(続く)
2020年8月11日
GEL(Global Leader Education) 主催 安藤 徳彰