3章 狂った福澤諭吉のシナリオ
近代的な国家を築こうと願った福澤に対し、中央集権的な国家を築こうとした長州藩の伊藤博文達は、北海道官有物払い下げ問題で窮地に陥った薩摩と組み、大隈・福澤一派の追放を行った。これが日本の運命を変えた明治十四年の政変である。
明治十年代の明治政府において、国会開設運動が盛んになる中で、政府内でイギリス型の議院内閣制(大隈、福澤が主張)を採用するか君主大権を残すビスマルク憲法(伊藤博文、井上馨)を採用するかの論争があった。岩倉は議員内閣制を取らず君主大権を温存する伊藤案を取り、伊藤に憲法作成を委ねることに決めた。
同時期に新聞のスクープにより薩摩藩の開拓使長官・黒田清隆が同郷の政商・五代友厚が作った会社に破格の廉価(注1)で官有物払下げを行うことが明るみに出ると、政府への強い批判が起き自由民権運動がいよいよ勢いを増した。伊藤らは払下げに反対した大隈一派を排除し反政府運動の鉾先を収めるため、事件の後始末に困った薩摩閥と組み、大隈の罷免を決め、大隈、福澤一門を徹底的に中央から追放した。伊藤は大熊・福澤一派を追い出す絶好のチャンスととらえた。啓蒙派を一掃して、中央集権的な国家の建設に取り掛かる。
政変で下野した福澤派の人材は実業界、政界などで活躍した。これが明治十四年の政変の背景であるが、この政変はその後の日本の方向性を決める重要なターニングポイントとなった。福澤諭吉の国家デザインで進めば、近代民主主義国家として、日本は別の発展をしていたことだろうし、同じ民主主義国家のアメリカやイギリスと戦うこともなかった。
注1:北海道開拓に政府は1400万を投じて函館湾や各種工場を建設。これを民間に払い下げるとき38万円、無利子の30年の月賦という法外な条件で関西貿易商会に売却しようとした。
この時の福沢諭吉の失意はいかばかりであっただろうか。どの様な対処をしたのであろうか。その答えは『学問のすゝめ』の中にある。
「政府その分限を越えて暴政を行うことあり。ここに至りて人民の分としてなすべき挙動は、ただ三カ条あるのみ。即ち節を屈して政府に従うか、力をもって政府に敵対するか、正理を守りて身を棄つるか。(中略)力をもって政府に敵すれば、政府は必ず怒りの気を生じ、自らその悪を顧みずして却って益々暴威を張り、その非を遂げんとするの勢いにいたるべしと雖も静かに正理を唱うる者に対しては、たとい冒政府と雖も(中略)同情相憐れむの心生ずべし」。
福澤は政府と直接対決せず、むしろ、政府や役人の役割を認めながらも、正理を唱え、人材を育成し、社会が正しい方向に変革することを期した。また、個人に対しては、「公」という意識を忘れないようにも説いた。
1901年福澤諭吉没後、日本はどの様に変わっていったのだろうか。
福澤諭吉は、民主主義を人類進化の結果としてもたらされた形態ととらえ、それに向かって新しい日本のデザインをするべきであると考えた。この政変により、日本は、福澤諭吉が唱えるような、開かれた民主主義の道を歩むチャンスを逸した。
しかしながら、福澤の門下生の活躍もあり、薩長以外、特に東北出身の人材の中には、福澤をリスペクトした人材も多く、漸次福澤諭吉のデザインした国家に近づく動きもあり、「大正デモクラシー」と呼ばれる時代もあった。特に岩手出身の原敬(平民宰相)は大胆な政治改革を行い、藩閥制度を解消して近代的な政治システムを造ろうした。しかし、原の死後日本の政治は変わり、国民不在の中央主権的色彩を強めて行った。
明治十四年の政変以降の日本の変化を振り返ってみよう
福澤はイギリスの様な政治形態が日本の進む道だと思っていた。王室があって、その元で議会制民主主義がある。王室という歴史・文化と個人の成熟をベースとした、立憲議会制民主主義が望まく、個人の独立・自尊の伸長は健全な民主主義成立の前提条件と考えた。
イギリスでは王政の補助機関として議会がはじまり、産業革命に伴う社会変動により、立憲君主制という政治形態とともに議会政治の原則が確立し、議会の多数派が内閣を組織し、内閣は議会に対して責任を持つという責任内閣制が定着した。その後5次にわたる選挙法の改正により、下院優先の原則が確立し、国民主権が定着した。イギリス憲法を構成する慣習法の一つに「国王は君臨すれども統治せず」、国王の存在は儀礼的なものにとどまった。
ところが、長州藩中心にデザインされた新生日本は、時代の進化に逆行するもので、権力者が御しやすい国民を作るためのものであり、その硬直性により、民主主義の進化を強力にブロックすることとなった。
明治十四年の政変前後に矢継ぎ早に導入された体制は次の通りであった。
明治日本で成立した国家体制 「国体」:
「国体」(天皇を頂点とした国家体制)の成立
「軍人勅諭」(1882年)
「家族令」(貴族制度 1884年)
「大日本帝国憲法」(明治憲法 1889年 天皇に権力が集中)
「教育勅語」(教学の最高規範1890年 儒教主義の復活)
「廃仏毀釈」(1868年 神仏分離令、1870年 大教宣布)
明治十四年以前にスタートしたが、長い日本の精神的な文化を崩壊させるものであった。神道を絶対視させるためであろうが、神道そのものには哲学も教えもなく、仏教伝来より醸成してきた精神文化を崩壊さる行為であった。
長州藩は教育の精神を儒教に求め(教育勅語)、天皇を神格化し、その下で国民を団結させ、国民を皆兵化し、「富国強兵」を実現するための体制を整えた。国民は国家のために存在した。この様な体制は、「富国強兵」という目的達成のための手段であったが、やがて、手段そのものが目的となり、「国体」が最高の価値観となった。敗戦のときも最もこだわったのが「国体の護持」であった。
天皇の神格化と絶対権力の付与は長州藩による「天皇の政治利用」そのものであった。小説家坂口安吾の言葉を借りてみよう。「藤原氏の昔から、最も天皇を冒涜するものが最も天皇を崇拝していた。彼らは真に骨の髄から盲目的に崇拝し、同時に天皇をもてあそび、わが身の便利の道具とし、冒涜の限りをつくしていた。…(中略)…軍部はこの奥の手を本能的に知っており、我々国民も又この奥の手を本能的に待ちかまえており、かくて軍部日本人合作の大詰めの一幕が八月十五日となった。」(続堕落論 昭和20年12月発行)
長州藩の取った新体制は、イギリスで言えば17世紀の「王権神授説」であるが、日本の天皇の権限はより絶対的であった。君主が絶対的権力を持って国を支配する体制派は16世紀から18世紀のヨーロッパで、封建国家から近代国家へ移行する過渡期に出現した政治形態だ。近代日本の出発に古い体制をわざわざ持ち込んだのは明らかに時代遅れであったが、そこには長州閥の「天皇の政治利用」という目論見があった。天皇の権限は絶大であっても、実際は側近の意のままであり、歴史学者伊藤隆によると、「日本の滅亡は重臣たちの無智によるもの」とのことだ。(重臣とは歴代内大臣斎藤実、湯浅倉平、木戸幸一である、このうち湯浅、木戸は山口県出身)
明治日本で成立した国家体制の欠陥
明治の体制は、明治の元勲が健在な頃は機能していたと思われるが、昭和になるにつれて、制度の欠陥が露呈することとなった。それは、リーダーとなるべき人材の劣化で、昭和の初期になると、元勲の子孫たちが権力の場についたが、いずれも小物で明らかに人材の劣化が目立った(木戸幸一内大臣、寺内陸相、閑院宮等)。それは、明治以降布いた日本型教育システムの帰結であった。明治維新の前後は正規の教育システムに乗らないで、リアリティーの現実の中で能力を淘汰させ、留学等によりの外に向かって見聞を広めた。
明治中期以降になると、画一的な教育システムで、暗記秀才型のいわゆるエリートを量産したが、視野が狭く、状況変化に対する問題解決力に欠けていた。国のリーダーになるのには小粒過ぎた。
最高権力者である天皇に卓越した能力があり、有能な補佐群が存在し、情報が正しく伝わっている限りでは国体は機能するが、世襲制では常に「英傑」を得るのは厳しい条件であり、また、天皇を皇居に「籠の鳥」の状態の環境では、情報不足・偏りが生じて、側近が多大の権力を持ち、機能不全に陥る。その欠点が顕在化したのは昭和初期であった。
また、天皇を元に直列的な支配構造のため、部門間のチェック・牽制機能が働かず、各権力の増大・腐敗、暴走を生む土壌となった。政治においても、軍事においても国家として統一的な政策、戦略が無く、バラバラであった。不祥事が生じても、天皇に任命権があり、自浄作用が働かなかった。
国民は国家のために存在することが規定されていて、国民がどのように窮乏しようとも、救済の意思と、救済の手立てはなく、デモクラシーなども押さえつけられて、民意を発現する道は閉ざされていた。一方、特権階級はわが世に春を謳歌し、汚職は蔓延し、軍閥も財界に懐柔され腐敗していた。国家体制以前に国民が精神的に堕落していた。
やがて体制の矛盾が鬱積し、機能不全の状態となり、中国大陸に進行し、展望のない戦線拡大を図り、第二次世界大戦で大敗して、莫大な犠牲を払った後、漸く占領軍の圧力により国民主権の立憲民主主義が導入された。日本は遠回りして、犠牲を払ってようやく福澤諭吉が思い描いた国家のスタンドポイントに立った。また一から出直し必死の国家再建を行い、脅威のスピードで国家の再建を達成した。
しかしながら1990年後半からの日本を見ると、再び福澤達の描いた国家像から外れて、国全体が弛緩し、「日本病」とでもいうべき病状が進み、それが日本の進化を止め、権力が政治を私する場面や政権や官僚がその無能さを露呈するケースが多くなった。政治家に中には、「戦中・戦前回帰」を真剣に目指している人物もいる。
以上の歴史も踏まえて、今の日本の閉塞状況を乗り切るためのヒントを、今一度福澤諭吉の教えの中に求めたい。
(次章に続く)
2020年8月11日
GLE(Global Leader Education) 主催
安藤 徳彰